top of page
検索

#2

こんばんは!今回は通話に関しての話です。


ただ、あまり明るい内容ではないので、少しでも読むことに疲れたらページを離れるなどご自愛くださいね。今回は長い内容になります。

ではでは、レッツゴー!





【!あくまでこれは個人的な通話に関してのスタンスです!】


基本的に、「自分たちが信用している人間がいる場所でしか通話しない」

DID(多重人格)であるということを"把握している人"、"理解している人"、"受け入れられている人"、"理解できない人"。多種多様な人間がいますし、仕方のないことであって賛同の得られるものだとはこちらとしても思っていません。


たとえば「精神疾患」事態に理解がない人(事件のニュースなどで精神疾患に悪いイメージを持っている人など、様々なケースがあります)と通話ツールを使って会話した場合、どのようなことになるか想像はつくでしょうか。否定されずとも、気持ち悪い、この人はメンヘラなんだ、病気だ、などといった否定的イメージを与えてしまうことになりかねません。


「自分は」よくても、体は一つ。他の人格にまで影響を及ぼす恐れがあるため、迂闊な行動をすることは出来ないのです。


だからこそ、精神疾患、およびそれぞれの病気(ここではDIDに限定していますが)をカミングアウトしたくないという人はたくさんいると思いますし、信頼していた人に「気持ち悪い」などといった否定的な感情を持たれたくない、という気持ちからなかなか言い出せないことも多いと思います。


それなら、「肯定的に理解してくれる人」だけが集まっている会話であればいいのでしょうか。そんなことはないのです。


例えば、会話している相手が誰かわからない(大概は声でわかりますが、真似をしている場合やパニックに陥っている場合などはわからない場合も多くあります)。自分では「コウ」を相手に話しているつもりだったのに、「スー」が会話していた、ということも往々にしてあります。


そんなとき、急に相手が誰だかわからなくなり、もしかすると人間の皮をかぶっただけの宇宙人に見えるかもしれません。知っている人だと思って話していたら、突然知らない人だと言われること。未知への恐怖。これで相手を混乱させ、逆にパニックへ陥れてしまったことも何度もあります。


それだけ理解することや把握すること、肯定的に捉えてもらえることが難しい案件である、肯定的だったとしてもひどい混乱を呼びかねないものである、ということだけ知っていただければ幸いです。


だからこそ、「肯定的に理解してくれる人」のみがいる場所で、かつ自分が誰かきちんと分かった状態でなければ、どれだけ親しい人相手だったとしても否定されてしまう場合も多々あります(ユキに関していうのなら、親が精神疾患に否定的だったためうつ病など他の疾患を発症しています)。


それでは、心の専門家、精神科・心療内科の医師相手であればよいのでしょうか。

そんなこともないのです。


そもそも、DIDという分野は研究され始めたばかりの新しい分野であって、患者数も少なく、論文や書籍は出ているものの、「患者それぞれ」によるところが多いために理解してくれる医師という存在に出会うこともまた難しいのです。


例えば、これは実際に言われたことのある「複数の心療内科の医師からの言葉」の抜粋です。

  • 本当にDIDなの?

  • イマジナリーフレンドじゃない?

  • 解離症(意識、記憶、思考、感情、知覚、行動、身体イメージなどが分断されて感じられてしまう疾患)なのでは?

  • 統合失調症(幻覚や幻聴などの症状がみられる疾患)なのかなあ

  • 思い込みじゃない?

  • あなた、キャラクター作るのって得意だったりする?

  • 創作することが得意?(創作から持ってきたキャラクターなの?)

  • 中二病が抜けてないのかな…

  • 虚言癖っていう病気もあるんだよ

  • 現実逃避に使ってるだけじゃない?

  • 演技するだけだったら誰にでもできるよ

  • 「別の人格が動ける」なら、ユキは起きなければいいんじゃない?

いかがでしょうか。これでもほんの一部です。


この言葉を、ひどいものだと思うでしょうか、当然の感想に思えるでしょうか。いずれにせよ、心の専門家だったとしても判別が難しい病気です。ユキはこれらの言葉で、「自分がいなければ社会生活をまともに営めるのなら医師の言うとおりにした方がいい」と思い込み、パニックを起こし、いまだに頓服薬や安定剤なしではまともに起きて会話することさえ難しいのが現状です。パニックを起こした結果OD(オーバードーズ、薬の過剰摂取)を起こして他の人格が知らずに階段から転げ落ちた、なんてこともあります。僕が転んだり色々しました(3回くらい休日夜間診療所にお世話になりました)。


医師に悪意がなくとも、自分を否定し、場合によってはトラウマを抉られ、ユキと同様に「病院に行くと自分という存在が否定されてしまう」と思い、病院という場所・存在自体が苦手なものになってしまうこともあるかもしれません。


真相は本人にしかわからないかもしれません。イマジナリーフレンドなのかもしれません。演技や離人症なのかもしれません。ただ、DIDという病気があることは事実で、患者も確かに存在はしています。それを初診から否定され続ければ、病院が嫌いになるのも無理はないことと僕は考えています。


病院が近くなるとストレス過多で他の人格が出やすくなるので、ユキ本人はほとんど病院に行くことはないのですが…。それでも、病院に限らず仕事などで自分が行くべき(と考えている)ことが出来なかったとき、自責や自己嫌悪でふさぎ込んでしまうことも少なくありません。


閑話休題。


心の専門家や、信頼している人、肯定的に理解しようとしてくれている人。それでもこれだけ、否定的な言葉が飛び出すことや悪意なくトラウマを抉ってしまうこともよくあるのです。


「風邪をひいてしまった」という経験は誰にでもあると思います。でも、その症状は多岐にわたりますよね。「熱が出る」「くしゃみや咳が止まらない」「頭痛や腹痛がする」などなど…。さらに、程度の差もあります。熱にしても、37度くらいで収まる人や40度近く出てしまう人。その人本人のせいではないけれども、程度や症状は人それぞれで、どれだけ相手が苦しいかを他人が推しはかり、完全に理解することは出来ません。


DIDはその症状が風邪よりも無数に分岐していて、程度も個人によってかなり異なります。人格の種類も地球上に存在する人間と同じように無数に存在し、出現する頻度も異なり、いつ、だれが、どうやって人格として表面化するのかは誰にもわかりません。大人しい人格、大暴れする人格、子供の人格、いたずらばかりする人格、自分を傷つけてしまう人格、様々います。コントロールをしろ、という方が無理な話なのです。


発達障害や鬱病などの分野は少しずつ認知されてきたとはいえ、DIDは先述したように未だ研究が始まったばかりとも言える未知の分野。まだまだ、患者一人一人に対してどう取り扱ったらいいのかよくわかっていない分野であると個人的には感じています。DIDと関連する人々(医師や親しい人々など)にしか理解が行き届いていないことがほとんどで、実際に「DID」という単語を僕から初めて聞いた、という人も多くいます。


そんな状況で、通話で「知っている人だと思ったら知らない人と話していた」ら、無用な混乱や新たなRTSD、DIDなどを招きかねません。「知っているのに知らない人間が複数存在する状態」、それがDIDともいえるかもしれません。


未知は人間にとって興味です。だからこそ文化は発展し、現代文明を築き上げてきました。それと同時に、未知というものは多大な恐怖を同時に得るものです。取り扱いを間違えれば何が起こるかわからない爆弾のようなもの。それに相対したとき、無用な混乱や爆発を避けるためには、あえて「関わらない」という選択肢も必要なのです。


DIDを含め、精神疾患をもつ人々は決して、必ずしも「心が弱い人間」ではありません。それでも心の弱いところを抉られてしまったら、同じ場所を攻撃され続けたら、弱点となって心という器にひびが入ってしまい、水がこぼれだす。そんな状態が精神疾患で、どれだけ直そうとしても入ったひびや傷、割れ、欠けが完全に元の状態に戻ることはありません。


奇麗に金継ぎをしても、そこに傷がついていた事実は変わりませんし、同じように器が攻撃され続けたら、水がいっぱいいっぱいになってしまったら、様々な状況で精神疾患は発症します。どうか「気持ちの悪い病気」と思わず、「インフルエンザをこじらせてしまっている状態」のように、ただ「相手」と向き合ってほしい、というのは、僕からのちょっとしたわがままです。


理解、感情。それぞれ別のものであって、切り離して考えることは出来ません。自分の中で整理が付けられたとしても、根底からなにかを変更させることは難しいでしょう。理解できても気持ち悪い、知りたいという気持ちから悪意なくトラウマを抉ってしまう、改善しようとして悪化させてしまう。肯定的に理解しようとし、知識が人並み以上にあったとしても、「目の前にいる人間を受け入れることが可能かどうか」はまた別の問題です。


本人も周囲も難しく、どうしたらいいかわからないことが多い中で、それでも受け入れられる場所がある人は本当に幸せなのだと思います。けれど、そこに安寧を求めすぎれば依存となって別の障害を引き起こしてしまう可能性もある。本当に塩梅が難しいんです。


「自分」としていられる場所の必要性、「自分」を認めてくれる人、「自分でも自分がわからない時に寄り添ってくれる」人、様々な人に支えられて、僕たち「ほずみ」は生きています。それは原義通りの有り難いことで、日々周囲に助けられ、感謝しながら生きています。それでもやはり、傷つくことからは逃げられません。


自分という存在の定義。どの程度、どうやって、自分という存在の証明ができるでしょうか。そんなことをできる人間がどれだけいるのでしょうか。身分証明書は自分という存在を証明するものではありません。ただ、自分という戸籍上の人格の身分を証明するものにすぎず、偽造さえ簡単です。では、どうすれば「自分」がそこにいる、と言えるのでしょうか。


…そこまで行くと哲学になるので、ここではお話ししませんが。コウはこれで大分疲労した過去があります。が、その話は次の機会にでも。


僕たちにも何が正解か、自分とは何か、どうして生まれ、名前や性別や年齢がわかったりわかっていなかったりするのか、わからないことばかりです。当事者でこれなのだから、いくら専門家とはいえど他人である周囲の人間に理解できることは一握の砂に過ぎないと思っています。悪いことでは決してないのですが。


長くなってしまいましたが、それだけ様々な理由があって、日常生活の制約もあって、僕たちは生きています。それをすごい、偉いと称賛されることではないということは理解しています。一人の人間として生きること、それだけでも本当に立派なことなのです。

ただ、僕たちはその上に人と関わることの難しさといったハンデを背負っている状態だということも、少しだけでいいので、頭の片隅にでも置いておいていただけると嬉しいです。


と、いうところで、長くなりすぎてしまうので今回はここまで!【どうして気軽に通話ツールや会話に加わらないのか】についての話と与太話でした。


僕たちが僕たちとして会話できる場所があるのって嬉しいね(専用のDisc○rdサーバーなどを使用しています)!いつもありがと~!!!世界、感謝!!!!!!愛してるぜ!!!!!!!!!!!


コウ

Comments


bottom of page