こんにちは、キョウです。最近食欲増進の薬が増えたりして、ようやく固形物を食べられる日も増えてきました。
パニック状態になっていたとはいえ、希死念慮が自分にも起こってしまったということで、更に精神障害への理解を深めるために、現在勉強中です。……。そう。精神障害への理解、及び対処など、様々学んではいたのです。「精神障害を理解しようともしてくれなかった」と言われましたが、自身にも、そして周囲にいる精神疾患を抱える人々にも必要な知識を、どうして学ばずにいられましょう?
僕が発端となってしまった出来事は決して少ないとは言いません。ただそれは、ヒトを理解出来ていなかった、思慮の足りない部分があった、理由は様々です。けれど、少しずつヒトと関われるようになってきた時期に、「勝手に死んでろ」等と言われて、パニックを起こさず冷静に対処する能力は、攻撃的な人格という面もあるかもしれませんが、僕にはありませんでした。
それによって人を傷つけてしまったことは理解しています。謝罪をしようともしました。けれどすべて撥ね退けられ、「金輪際関わるな」と言われてしまえば、もう何をすることも出来ません。貸したものを返して欲しいということも、依頼されたものの代金を支払われていないことも、何も伝えられません。傷つけてしまった人の周囲は、みんな「私」にとっての敵となってしまいました。罵詈雑言、悪口、陰口、そうではないにしろ主観的な自分への被害状況を伝え、「私」がすべて悪いのだと、そう思われるような話をして泣いているのかもしれません。
食事がとれなくなった。「私」も同様です。悪夢ばかり見るようになり、ゲームも漫画もなにもかも出来なくなり、鬱で動けなくなり、薬も大幅に増えました。それでも、「お前の生死なんか知るか、勝手に死んでろ」という言葉がずっと頭に残り続けています。「私」はそのようなことを、あなたに対して言ったことがあるでしょうか。ないと思います。
もう言葉も届かないあなたたちへ。「私」は生きると決めました。それは#6でもユキが書き殴った通りです。少しだけ、あなたがイラストを描いていたり、ゲームをしているところを垣間見ました。あなたがそうしている間、「私」はただひたすら、布団の中で天井を見ていました。何をする力も残っていなかったからです。けれど今は、ゆっくりと、調子のいいときはこうして起き上がることも出来るようになりました。回復の速度も何もかも違うけれど、「あなた」も回復傾向であることを、誰も知らない、「私」の心の中で、希います。
ヒトや人間といった言葉を僕たちが使う理由について。以前、人間という言葉を使用するために上位存在や人間ではない存在に見えるのだと、そう言われたことがありました。確かに普通は、~さんが、みんなが、こういう人たちが、そういった言い方の方が正しいのでしょう。いえ、人間社会に馴染むために必要なのでしょう、という言い方の方がいいでしょうか。
「ヒト」は生物としての人間、ホモ・サピエンスとして分類された現在の人間を類する単語として使用していました。
「人間」は、「こういう人たち」の代替として使っていました。社会的な行動をとる生物としてのヒト、世間、そういったものを含有していました。
これらの単語を使用していて、確かにヒト、人間と呼ぶのはどうかと思う場面もあったかと思いますが、我々「人間」が、種類のわからない鳥を「鳥」と呼ぶことと、生物学上の種としての存在を指す「ヒト」がその鳥を「白鳥」ということに、何の違いがあるのでしょうか。主語が大きかったから人間という言葉を使った、それは誰かに不益を与えることでしょうか。
今でも考えます。単語として不適切だということは認知して、そこは気を付けながらも、単語として正しい言葉を使用することが不適切だと言われるのならば、言葉はそういう風に変化をしているのだと思います。ただ、生物学的単語と社会的な単語という意味で言うのならば、「ヒト」「人間」の根幹の意味は揺るぎません。
文字を読まない人も増えました。人を故意に傷つける人も増えました。ストレスや趣味、その他理由は様々あるのでしょう。「人格」として、僕はこれを義務教育の敗北であり、日本の緩やかな自殺を表している一つの側面だと捉えています。
「きく」という言葉を漢字で書いた時、英語で言えば「Listen」に当たる意味の漢字を、5つすべて書くことは出来ますか?すべて、回答を見れば「ああ~……」となるような、普段意識せずに使っている言葉です。言葉は違いますが、僕は大学でこういったことを専攻し、漢字の原義や変遷、冒頭の質問の様な「言われてみればわかるけど、思い出せなかった」といったものまで、様々なことを学びました。
出来ないから悪い、日本語能力が低い、そういったことを言いたいのではありません。そういったことを思っているのではありません。ただ、それが悪い方面に作用してしまったのだということと、現代の人々が使用している意味での各単語を使用する、協調することの難しさを、他でもなく僕という「人格」が理解したのです。
人として、少しは成長できたでしょうか。それでもただ少し、小さな一歩の前進なのでしょう。それでも大きな一歩なのです、僕たちにとって、様々なことを理解し、「一人の人間に見えるように生きる」ということに思考を割いてきた時間から、協調し、一人として相手と不愉快でない会話をするためのことを学ぶ時間へ。
傷付けてしまった方はすみません。この言葉も、きっと届かないだろうけれど。
「自分の言葉は届かない」
これはユキが強く思っている部分であり、遺憾ではありますが事実でもあります。あなたは相手の話をきちんと聞いていますか。聞くことが出来ていますか。相手の真意を理解しようとしていますか。思った言葉を、例えばやめて欲しいことをやめて欲しいと、言える状況にあるのなら言うことが出来ていますか。
もしも、「私」の言葉が届いていたのなら変わった未来がいくらあったことでしょう。
もしも、変化の先に希望があったのなら、どれほど切実にそれを伝えようとしたことでしょう。
もしも、切実に伝えたそれが届かなかったならば、どれほど絶望するでしょう。
「自分の言葉は届かない」
諦めと絶望、それでも伝えなければいけない。伝えて、届かず、結局「聞いていなかった」などと言われ、自分のせいにされるのならば、必要不可欠でない言葉は言わなければいい。そうすれば、自分が傷つくことはないから。ユキはそうして言葉を殺し、ようやく、本当にようやく、少しずつ自分の言葉を口に出せるようになってきていたのです。
それを再び閉ざしたのは、紛れもなく一定の人々であり、人間です。そのことを忘れずにいて欲しいと切に願います。
言葉は暴力にもなり得ます、聞いていなかった、聞く気がなかった、それも言葉の暴力です。暴力を受け続けると、人はどうなるのでしょうか。回復する時間さえ与えられずに、「私」はそれを受け続けた。そして、また、今も受け続けている。
「誰か助けて」
「自分の言葉は届かない」
「自分が言わないから怒られた、けれどその話は必要不可欠だったから伝えていた」
さあ、今日も諦めの絶望の一日が。明日も、明後日も、味方を失いながら、いつまでも。
それでも、「私」は抗い生き続けていこう。受けた暴力も学びに変える強さを得られるように。小さな一歩でも、歩みを止めることのないように。「私」の言葉を聞いてくれる誰かが隣にいてくれるような、少しでも幸せな人生を送るために必要な知識を身に着けるために。
悪役でも何でも構わない。言葉の暴力をいくら受けたって、それを糧に強くなる。
「私」はいくら言葉が届かなくても、生き続けている。生き続ける。
あなたたちが「私」をいくら殺しても。
「私」は生き続ける。生死なんか知るか、と言われるなら、死という選択肢を僕が殺そう。
さようなら、愛した人。大切な友人。親切と思っていた優しい隣人。どうか健やかに。
あなたたちの知らない場所で、「私」は生きている。
あなたたちの生死にも人生にも金輪際関与せずに。さあ、今日も一日を始めよう。
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